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    「ハッパさね」

    「鮒?――それあ喰べるとも」

    「いや、鳴つた。出張所の鐘がたしかに鳴つていた」

    節度、克己、厳正、高雅、忍耐、――これらの、その内実に於ては達しがたい、しかも外見の立派さのために容易に人を惹きつけ易い徳は、漢学の素養のある正文にとつては親しみのある、又好ましいものだつた。彼は一人息子だつた練吉に望みをかけ、きびしい育て方をした。中学を出る頃までは良家の子弟らしく温和おとなしい一方だつた練吉は、医専へ入つて親の手許を離れた時分から急に人間が変つたやうに見えた。女の味をおぼえたのである。最初は女学生との関係であつた。次は年上の婚期のおくれた女と馳落かけおちした。その次は芸者だつた。どれもこれも殆ど生き死にをするやうな騒ぎであつた。一変して放蕩息子と化した練吉に仰天した正文は、この時覚悟をきめて、練吉はまだ学生の身だつたが、その芸者を嫁に迎へることにして、学校の所在地で家持ちをさせたが半年とつゞかなかつた。女が結核になつたせいもあるが、別れる時にはかなりの手切金をとられた。

    「はあ、それは――」

    その時にはもう手にした洗ひ道具をはふり出して、河原の縁をその方に向けて一散に走つて行く徳次の姿が見られた。両岸の間に太い針金が張りわたらせてあつて、船に乗つた人は綱を手繰りながら渡る仕掛になつている。ちやうど、船はこちら側にあつた。徳次が向ふ岸まで船を手繰たぐり寄せて行つた頃には、房一はやつとこさ河原に降り立つて、近づく徳次に向つて親しみ深い微笑を浮かべていた。その微笑は彼特有の円々としたどつか厚みのあるものだつた。房一の傍には白と茶との斑犬がついていた。

    今その文太郎が県会の視察旅行に出ていたので、法事の主人役は直造に廻つたのである。だが、文太郎はかういふ町内づき合をあまり好んでいなかつたから、たとへ在宅だつたにしても、直造は主人役を買つて出たであらう。

    房一がそこへ出るのと、さつきの二人が表から入つて来るのと同時だつた。

    「閉口でしたな」

    「もう着てみましたか」

    ところが驚いたことにはこの男は、房一があらゆる初対面でやる鹿爪らしい挨拶の文句を今やはじめようとしたときに、いきなり前に立ちはだかるやうに、と云ふより、殆ど気づまりのするほど真正面に近々と顔をよせて、おまけに露骨に房一の顔を見入りながら、

    と、練吉が引つたくるやうにとつてしまつた。

    きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして

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